はしれサイドテール

Extreme Heartsを観てください。

時代と共に「生きる」エンターテインメント──TVアニメ『Extreme Hearts』という「体験」

 JSidetailのこれまでのあらすじ。
 この一年、『SB69』のプレイリストを聴き漁ったり、『ウマ娘』のゲームに苦しんで……もとい没頭していた私は、漠然とではあるが少しずつ声優・野口瑠璃子氏の歌声に惹かれていった。
 時は流れ、2022秋クールの始まりを座して待っていた、そんな夏の終わりの折。野口瑠璃子氏が(『プロセカ』のミニアニメを除けば初の)主演を務め、さらには楽曲まで歌ってくれるという『Extreme Hearts』なる夏期アニメの存在を、本当に今更になって知る。3ヶ月遅い。
 これは是非とも観るしかない! こうしていわば「声モク」のような形で、やはり秋の始まりというのは夏の怠慢のツケに追われてこそみたいなところがあるなと、遠い学生時代に想いを馳せながら視聴を開始した。


 そんな『Extreme Hearts』の第一印象はというと、間違いなく「変なアニメ」だった。


「SF×スポーツ×アイドル」というごった煮にも程があるテーマ、タイトすぎる展開、突然現れるロボット、対戦チームのメンバーのメガネが変、あと作中のなにもかものフォントがダサい……とにかく、予備知識ゼロで挑んだ一端のオタクを困惑させるには十分な出足だった。(一方でFirst 2の関係性を1話でバシッと提示したり、教室に入るまでの僅か数秒のカットで主人公の境遇を端的に表現してみせるなど、この時点で光るものはあった)


 しかし視聴を進めるうちに、個性豊かなハイパースポーツアイドル達が思うままに羽ばたいていく様に心を打たれ、作品の持つ「熱」に少しずつ、されど確実に取り込まれていく自分に気付く。


 無論、ストーリー自体もそれはもう、右肩上がりに面白くなっていくのだが……。それ以上に、この冗談みたいな世界を真剣に生き抜く魅力的なキャラクター達と、その存在の輪郭を追究せんとする作品の姿勢そのものに、アニメ視聴における最も根源的な感情ともいえる、強い愛着と敬意を抱いていたのだ。


 そして迎えた最終回──『Extreme Hearts』という作品が綿密に積み上げてきた仕掛けの全てが結実する最高の視聴体験を前に、私は言葉を失うばかりだった。
 興奮冷めやらぬ中、第1話の再生ボタンに手を伸ばす。視聴を繰り返す度に圧縮されきった高密度の情報が少しずつ解けて噛み合い、主題に対する強固な一貫性や随所に光る映像や音声に構成をひっくるめたアニメーションとしての上手さを理解させられ、でも時々やっぱりなんか変だよ!となりつつも、心の底から満たされていく感覚に確信する。
 このアニメ、めっっっっっっちゃくちゃ面白い!


 いつしか私は、『Extreme Hearts』というスルメの味が忘れられなくなっていたのだ。


 そして今に至るまで、私の生活は『Extreme Hearts』を中心に回っていると言ってもいい。


 なんということだ。狂ったアニメを観ていたと思ったら、気付けば私の方がこのアニメに狂わされていたのである。


 かくして年度代表アニメならびにJSidetail顕彰アニメの座に収まった『Extreme Hearts』という作品を、葉山陽和という少女を、ひとりでも多くの人に知ってもらいたい──私自身、惜しくも放送当時に『Extreme Hearts』をキャッチできなかった身として、この無冠の名作を広く共有すべきだと思い、こうして筆を取った次第である。あらすじおわり。


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何のアニメかよく分からないキービジュアルが特徴的。

 改めて『Extreme Hearts』(エクストリームハーツ)とは、TOKYO MXならびにBS11にて2022年夏季より放送された全12話からなる1クールアニメである。『リコリコ』や『エンキス』といった錚々たる面子が集うドヨルの深夜帯にひっそりと放送されていたらしい。めちゃくちゃ起きてた時間やんけ……
 監督は西村純二(あえてTL向けに言うなら『カラパレ』の人)。原作および脚本は『なのは』シリーズの都築真紀氏が手掛けている。

5という数字は美しい


 現在、dアニメストアやAbemaTVなどのアニメ配信サービスにて全話見放題配信中だ。

animestore.docomo.ne.jp


 まずは『Extreme Hearts』がどういったアニメなのか。物語の導入部分とその一風変わった世界観について、軽く紹介していこう。


 2048年──我々の住む現代から見て少し先、テクノロジーが大きく発展した近未来の日本。人々の生活や医療をロボット技術がサポートし、人間の身体能力を補助・強化するアイテム・エクストリームギアが普及した世界。
 春も半ば、音楽系若手女子芸能人が一堂に会しライブステージを賭けてハイパースポーツで競い合う夏の祭典「Extreme Hearts」の地区予選大会の開催が間近に迫っていた。


 何やらのっけから胡乱な文字列が飛び出してきたが、ここで、アイドルアニメ戦国時代に息づく『Extreme Hearts』最大の特徴であるハイパースポーツと、物語の主な舞台となるスポーツ大会「Extreme Hearts」についても説明しておく。ややこしいな! 以下、作品名と区別すべくカナ表記とする。


(もっとも、ある程度は器と乳のデッケェ聖人が1話で解説してくれるので、この辺りはざっと読み飛ばしてくれても構わない。)


「ハイパースポーツ」とは、身体補助装備・エクストリームギアの台頭によって生まれた『Extreme Hearts』の世界観を象徴する競技であり、身体的なハンディキャップを埋め、誰でも超人的なパフォーマンスによる白熱した試合を楽しめる大衆向けのスポーツとして、老若男女を問わず親しまれている。
 これ自体がスポーツに人生を捧げていない少女達の真剣勝負にケレン味を持たせ、「タレント業と並行して行われるスポーツ」という一見無茶苦茶な、それでいてこの作品の掲げる理念において大事な設定を押し通すためのギミックとなっている。
 面白いのが、アスリート達がその身一つで頂点を目指す馴染み深い現代スポーツの延長線上にある「リアルスポーツ」とは分化した、限りなくホビーやエンタメに近い競技という劇中の立ち位置。ハイパースポーツが発展した世界であってもリアルスポーツの権威が損なわれることはなく、ハイパースポーツで活躍した選手がそのままリアルスポーツでも結果を残せるとは限らないし、リアルスポーツで積み上げてきたノウハウはハイパースポーツにおいても明確な強みになるもののやはり根っこの部分で勝手が違うというパワーバランスの是正であり、何よりこの作品がスポ根的な努力と勝利を描きながらも、あくまでスポーツの「娯楽」としての側面をこそ賛美していることの証左でもある。(つまり『Extreme Hearts』は本質的にホビーアニメの節があるので、バッティングセンターで170キロを撃ちまくる女や小学生の頃からリンゴを素手で握り潰せる女がその辺を闊歩していたり、スポーツ歴3ヶ月の高校生歌手が生身で中学生の後輩をおぶったまま海の浅瀬を光の速さで疾走していても、おおらかな気持ちで受け入れるべし。)


 そして、そんなハイパースポーツの大会の中で最も注目を集めているのが、音楽系若手芸能人による複合競技大会「エクストリームハーツ」。
 トーナメントを勝ち進むにつれてライブステージの権利や楽曲販売の契約といった様々なプロモーションが執り行われるのだが、我々の世界でも毎年層を問わず盛り上がりを見せるスポーツ観戦の延長線上にあるため勝利チームの注目度は非常に高く、基本的に出場選手はそれを目指して戦うことになる。
 複合競技大会を謳うだけあって、各試合毎に異なる種目に臨まなければならないのがエクストリームハーツの特徴だ。フットサルから野球までなんでもござれというその特殊な背景から、時には競技に必要な人員や練習相手を大会の規格に合わせて性能を制限されたプレイヤーロボットで補うことも。
 エクストリームハーツそのものが、音楽会社による新人発掘オーディション的側面とアイドルを起用したプレイヤーロボットやエクストリームギア等の工業商品の宣伝を兼ねたスポンサーありきの興行である……というふうに、一見突飛な設定に反して根の真面目さが垣間見えるギャップもこの作品の面白いポイントだ。



 この物語のスポットライトを浴びるのは、そんな饗宴の舞台とはかけ離れた世界で、たったひとつの夢に邁進する一人の少女。
 葉山 陽和はやま ひより。中学生の頃にプロデビューが決まり、北海道から単身上京してきたシンガーソングライター。
 ミニマルに切り詰めたプレハブ小屋を拠点に、学生生活を送りつつ配達のアルバイトをしながら懸命に活動を続けていた彼女だったが、リリースされた楽曲の売り上げは芳しくなく、オーディションも落選続き。与えられる仕事は歌手としてのものではなく、店舗営業や成功者達の仮歌収録ばかり。


 それでも、自分を応援してくれる数少ない(唯一と言ってもいい)ファン・小鷹 咲希こだか さきの支えを糧としてひたむきに努力を重ねていた彼女の夢は、高校2年生の春、所属事務所からの契約終了といった形であっさりと手折られることとなる。



 葉山陽和(左)と小鷹咲希(右)。物語を通して貫かれ続けるふたりの約束と覚悟に、関係性のオタクも唸ること請け合い。ちなみに、カップリングとしては咲希が左で陽和が右だと思われる。


 華奢な身体にのしかかる重たい現実。しかし、手紙の内容にはまだ続きがあった。音楽一本で生きてきた彼女とは無縁の、知る由もなかった勝負の世界。されども名もなき花にも陽を注ぐ希望の舞台──「エクストリームハーツ」への出場を提案されるのだった。


 失意と恩義と、さまざまな思いに揺れる中。それでも夢を終わらせたくない陽和は、一縷の望みを懸けてエクストリームハーツへの参加を決意する──が、一般論として、幼少期から己の人生を歌手という夢へ捧げてきた彼女に、厳しい勝負の世界で栄光を勝ち取る見込みはゼロに等しい。
 無謀と言うほかない陽和の決断は、報われない彼女の活動を献身的に支えてくれていた咲希にさえも否定されてしまう。


 それでも、この挑戦の先に輝ける舞台が、大切な人に再び歌を届けられる日常が待っていると信じて。
 今度こそ誰からも支持されることのない孤独な戦いへと、身を投じていくのだった。


『Extreme Hearts』はそんな灰被りの歌姫が、かけがえのない仲間達と出会い、夢を叶えていく軌跡を切り取った青春活劇である。


 併せて、スポーツという未知の世界へと果敢に飛び込んでいく陽和の姿を通じ、さまざまな事情から夢と距離を置いたアスリート達が新たな輝きを見つけ、再起していく姿も描かれる。


 イロモノめいた絵面や設定こそ数あれど、描かれるのは実にシンプルな都築作品らしい友情・努力・勝利。
 SFナイズされた舞台設定とは裏腹に、等身大の少女達がプリミティブな苦悩や葛藤を乗り越え新たな一歩を踏み出す。リアルとはかけ離れた世界で、人と人とが繋がり、己と向き合い、大切を増やしながらちっぽけで壮大な夢を現実にしていく、王道ド真ん中のスポ根アイドルアニメだ。

 競技では頼りになる仲間達も、芸能活動では陽和に一から十までを学んでいく。芸能では一日の長がある陽和も、競技方面では周囲に支えられながらチームに貢献すべく必死に、しかし心の底から楽しんで努力する。
 スポーツ×アイドルという制約が意外なほどにスパイスとして機能し、相互に作用していくのも『Extreme Hearts』の魅力のひとつ。
 スポーツの純粋な楽しさと爽やかさをまっすぐに描く一方で、スポーツのみに傾倒してはいないタレント達の物語ならではの温度感もまた妙味だ。昨日の敵は今日の友を地で行くご近所付き合い的な交流と連帯の広がりが、崖っぷちから始まった陽和たちに刺激を与えていくのがとても楽しい。青春の中で紡がれていく少女達の関係性や、出会いの度に映像が変わるEDも必見。
 スポーツに勝敗を委ねることにより、少女達の本懐たる自己表現としてのライブステージと客観的優劣を分離した後腐れない作劇に成功しているのも、アイドルアニメとしての一種のイノベーションと言えよう。
 ハイパースポーツやライブシーンの作画は一部の引きの絵を除いて全て手描きとなっており、枚数こそ多くはないものの限られたリソースを上手にやりくりしてメリハリの効いた映像に仕上がっている。


 総じて『Extreme Hearts』は自ら掲げた過積載気味なテーマと正面から真摯に向き合い、ものの見事に昇華してみせた素晴らしいアニメだった。
 2022年は特にオリジナルアニメが強かった年という印象があるが、この『Extreme Hearts』もそれらに埋没することのないビビッドなフィルムに仕上がっている。


 ……と、ここまで『Extreme Hearts』の持つ高い総合力について書き連ねてきたが、何せ『Extreme Hearts』は本当に色々なものが詰まったアニメなので、まだまだ語りたいことは沢山ある。
 筋書きそのものは至ってシンプルな青春サクセスストーリーが、如何にして私の心に楔を撃ち込んだのか──何が『Extreme Hearts』を忘れられない「体験」たらしめたのかについて、もうしばらく私の拙文に付き合っていただければと思う。



 やはり、この少女なくして『Extreme Hearts』は語れまい。
 私含め数多の『Extreme Hearts』視聴者を骨抜きにした2022年アニメのヒロイン・オブ・ザ・ヒロインズ・オブ・ザ・ヒロインズこそ、この物語の主人公にしてチーム「RISE」のリーダー・葉山陽和である。



 かわいい! ちなみに本作には萌え・オブ・ザ・萌えズ・オブ・ザ・萌えズのマネージャーロボットちゃんも登場します。


 チームスポーツやアイドルグループに焦点を当てる上で群像劇の形式を取るタイトルも年々増えていく中、『Extreme Hearts』は明確にこの葉山陽和を中心とした、葉山陽和のための物語を描いていく。そもそもRISEのメンバー自体が、シンガーソングライター・葉山陽和を夢の舞台に押し上げるという志の元に集う仲間だからだ。


 アスリートとしての下地も芸能人としての後ろ盾もない、ゼロからのスタートでありながら決して弱音を吐かず一意専心努力を重ねる陽和の芯の強さと新しい挑戦を純粋に楽しむ胆力は、やがて彼女の下に集うチームメイトのみならず共に地区大会を争うライバル達にまで好影響を与えていく一方で、レンズ越しに映る彼女の人物像はポジティブに周囲を牽引していくヒーローではなく、ストイックで大人びた、それでいてどこか放っておけない儚さを帯びた等身大の少女である。


 担当声優である野口瑠璃子氏は陽和を演じるにあたって、当初「プラスもマイナスも表に出しすぎない」「もっと落ち着いた感じに」と繰り返しディレクションを受けたと語っている。不幸な声質(なんちゅう言い草だ)がキャスティングの決め手となったエピソードからも、逆境を始まりとする葉山陽和という人物のコンセプトが伺える。


 挑戦の始まりとともに陽和が掲げる「昇っていくしかない」の標語に偽り無く、『Extreme Hearts』は過度にウェットな話運びをしないつくりになっている。
 未知への挑戦を全力で楽しみながら走っていくRISE達の姿が実に爽やかな読後感をもたらしてくれるのだが、息つく暇もない青春の日々の中で、こと主人公である葉山陽和の内情は意外なほどに語られない。温和で人懐っこく、それでいて謙虚さと強情さが絶妙なバランスで同居した少女の腹の底を隠したまま、物言わぬスポットライトが彼女の姿を捉えていく。


 しかし、そこはシンガーソングライターの少女を柱石として掲げる『Extreme Hearts』。そんな葉山陽和が表情を覗かせるツールの一つとして、彼女自ら作詞・作曲を手掛けたという設定のもと劇中で披露される楽曲たちがある。


 特に、葉山陽和個人名義の楽曲は切迫した彼女の現状を赤裸々に映し出す、エンターテインメント性に欠けた不器用な叙情詩(だからこそ、孤独と挫折に壊されかけたひとつの幼い心に寄り添えたのだが)というコンセプトを元に都築真紀氏自らの手によって書き下ろされており、そこから仲間やライバル達との関わり合いの中で刺激を受け、さまざまな感情と出会うことで少しずつ歌詞が外向的になっていく様子や、作詞家としても表現の幅が広がっていく……といった、血の通った変遷が描かれる。*1一方で、ラブソングを書けば河川敷から始まる恋の歌が出力される純朴さもまた彼女の魅力と言えよう。
 そもそも歌手志望なのにアイドルを?という、OPやキービジュアルを前に浮かび上がるであろう疑問も含めて、彼女の音楽活動にフォーカスしてみるのも面白いだろう。


 陽和がああまでして歌にしがみつこうとするのは何故か。夢に見放されたはずの彼女を、何がそこまで突き動かしてくれるのか。
 ソロシンガーとしての葉山陽和が歌う最後の曲──高架下のライブ会場で大切な人へと捧ぐ歌に、その源泉を垣間見ることができる。


 彼女はこの目まぐるしい青春の日々の中で何を思い、どんな言葉を綴っていくのか。そしてその言葉が、誰に届いていくのか──
『Extreme Hearts』を視聴するということは、葉山陽和というかたくなな少女を、彼女の友人や観客たちと同等の視点で見つめ、思いを馳せ、歴史を辿っていくことと同義と言ってもいい。
 そんな彼女の生き様と真摯に向き合った時間を、この作品が決して裏切らないことを約束しよう。


 さて、ビジネスの世界では思う評価を得られず辛酸を舐め続けてきた陽和だが、幼い頃から研鑽を重ねてきた歌の実力は折り紙付きだ。
 これは中学生にしてプロデビューを果たしたという作中の設定のみに留まらず、やはり葉山陽和を演じる野口瑠璃子氏の有無を言わせぬ歌唱力が、葉山陽和の物語にこれ以上ない説得力を与えている。
 葉山陽和がRISEの中心であるように、野口瑠璃子氏の歌声と時に鬼気迫るような芝居が『Extreme Hearts』という作品を支えるMVPと言っても過言ではないだろう。
 実に烏滸がましい話だが、この作品を通じて野口瑠璃子氏に対して膨れ上がった「もっと売れてほしい」という気持ちが、陽和に対する咲希の思いと重なって見えたのも、私が『Extreme Hearts』と葉山陽和から抜け出せなくなる要因の一端を担っていたのかもしれない。


 や、あの……野口瑠璃子さんの歌声は本当に……本当に良いので……是非他の曲も聴いていただけたら……
https://open.spotify.com/playlist/2QHq0iVzalxXaQ2JBBVPcl?si=H21WifkzT9CQfoC5Px2Ekg



『Extreme Hearts』は一本の柱にあらず。葉山陽和が夢を叶えていく過程をまっすぐに描いたTVアニメ本編に花を添える副読本たるコンテンツの存在も、本作を語る上で絶対に外せない要素である。


 その筆頭となるのが、公式チャンネルにて公開されている短編サイドストーリー『Extreme Hearts S×S×S』だ。

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 TVアニメ本編各話の補完となるサブエピソードに第1話の前日譚を加えた全13話からなるショートムービーで、主人公・葉山陽和とたった一人で彼女を支え続けたファン・小鷹咲希が高架下のひとときを共有するようになるまでの経緯が描かれているほか、各回で登場人物が胸中に秘めていた想い、ご近所付き合い的なライバルチームとの交流、特殊な世界観を息づかせる舞台背景の補完や選手達の覚悟と、本編の解像度をグッと高める「横軸」のエピソードがふんだんに盛り込まれている。
 紙芝居形式の、少々退屈に思えるかもしれないつくりではあるが、TVアニメが描く「縦軸」を通して『Extreme Hearts』という箱を構成する要素の何かひとつでも胸に突き刺さった方には、ぜひとも門戸を叩いてみることをオススメする。



『Extreme Hearts』と私たち視聴者を繋ぐツールとして、陽和やRISEのメンバーが投稿しているとされる公式ブログも欠かせない存在である。

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 こちらは登場人物の情報発信の場として、TVアニメ本編よりも前に陽和が個人で投稿した記事を通して彼女の背景が垣間見える「葉山陽和のBlog」と、RISEメンバーの裏話も兼ねてTVアニメの放送と並行してリアルタイムに更新されていた「RISE BLOG」の2つから構成されている。
 本編でもRISEの面々がブログをチェックするシーンが見られるなど、明確に作品世界とリンクしている要素であり、劇中で披露された楽曲の配信URLがホームページ用の試聴リンクという体で公開される粋な計らいも。
 キャラクターがSNSをやっているという設定で場外演出にメディアを活用するコンテンツは昨今では珍しくないが、こちらはブログというある種閉鎖的で自由度の高い媒体を通じ、物語の進行に合わせてリニューアルされるサイトデザイン知名度に比例して増加するインプレッションといった軌跡を追っていく形となる。一世一代の悲報すら見向きもされないソロシンガー時代の閉塞感から、少しずつあたたかく世界が開けていく感慨は、何とも言い尽くせないものがある。陽和所長が途中で乱心して我はメシアとか書いてなくてよかった。
(本編以前の時系列となる最初のページを除き、TVアニメ本編1話につき1ページ更新される形となっている。)


 陽和の変化とともに表情を変えていく楽曲たち、サイドストーリーによる贅沢な掘り下げ、作中の登場人物が投稿している体で本編と並行して更新される公式ブログ。
 あらゆる媒体を活用し物語を息づかせる数々の仕掛けが『Extreme Hearts』という箱に立体感を与え、没入感をもたらし、RISEの、葉山陽和という少女の、アーティストのファンになるという「体験」を彩ってくれるのだ。


 物語の最終章で描かれる、全ての「体験」が収束するライブステージは、まさしく視聴者とRISEが共に走ってきた時代の総決算に相応しい。


 かつて孤独の中で灰を被っていた少女の瞳に映った景色。葉山陽和が見る、葉山陽和が見せる幾千の光。
 その全ては、是非この拙文を読んでくださった皆様の目で……一人のファンとして客席に立ったあなたの目で、見届けて欲しい。



 誰かの存在が、誰かの声が、夢を諦めずにいられる力になる。


 歌を聴いてくれるファン。パスを受けてくれるチームメイト。投球を受けてくれるバッテリー。想いや願いを受け止め、受け入れてくれる人々。
 本作では、受け手なくして送り手成り立たずという感性が、劇中を通して貫かれている。
 どんなに価値のある原石であっても、それを拾い上げ、磨く者がなければ路傍の石と変わらない。


 数え切れないほどのコンテンツが次々と生まれては忘れられていく、エンターテインメントには事欠かない現代。
『Extreme Hearts』はきっと、万人の心に届いて震えさせるような、輝けるダイヤではない。
 それでも、拾い上げた者の心をひときわ強く掴んで離さない宝石になり得るアニメだと、私は信じている。
 まるで、いつか青空に届くと信じて叫び続けた歌姫のように。


 どうか拾い上げ、磨き上げ、そして感じて欲しい。
『Extreme Hearts』という「体験」を。
 葉山陽和と共に生きる「時代」を。



 願わくば、陽和先輩の優しい歌が、一人でも多くの人に届きますように。



*1:だからといってソロ時代に売れなかったこと、ユニットになって売れていくことの軸がその変化にある……といった描かれ方はしないことをあらかじめ断っておく。「万人ウケしない曲」というのはやはりコンセプト段階で意識されている(作家インタビューより)ものの、咲希や後に登場するキャラクターはソロ時代のリリックを高く評価しているし、そもそも陽和はプロに一定の才能を認められ一度はデビューという成功を果たした身である。この作品の掲げるテーマが見えてくれば、自ずと陽和のソロ時代の不振の理由もそこに紐付いてくるように思う。